Steve Jobs による「コンピュータは自分にとっての自転車みたいなもの」スピーチの出典は Vance Tucker の論文

イントロ

いつものように Researchat.fm を聴いていた。第30回 30. Battle Aura | Researchat.fm の開始10分程度で、この Steve Jobs による「コンピュータは自分にとって自転車みたいなもので、これがあることでヒトはぐっと enhance されるんだ」みたいなスピーチの話が出てきた。ほう。バイオメカニクスじゃん。

実際にどんなスピーチだろう、とググると、たとえば How the bicycle beats evolution and why Steve Jobs was so taken with this fact | Bike Boom などがヒットする。Sci Am が出典ということらしいが有料なので読めない(買いたいほどではない)。しかしここで引用されている figure のキャプションに、

this graph is based on data originally compiled by Vance A. Tucker of Duke University

とある。おっ?

Vance A. Tucker といえば、鳥の飛行のバイオメカニクスをやってる人間なら誰でも知っているであろう有名人だ。初期は風洞の中でマスクをつけた鳥を飛ばして酸素消費率を計測したことで知られ、後期には猛禽の翼端・狩り飛行やそれと眼の構造との関係なんかを調べたりしている。しかし恥ずかしながら、自分はこの metabolic rate の話は知らなかった。そこで Duke の公式ページ ( Vance A. Tucker | Scholars@Duke ) に行って、ダウンロード漏れしていた論文をなるべく全部収集した。

元ネタ論文

その結果、どうやら元ネタはこれらしいという論文がわかった:

この論文の figure 1 が非常によく似ている。なおこの論文のデータは全部自分で調べたわけというではなくて、他の論文等からデータを引用している。Table 1に出典付きでデータが書いてある。Cost of transport(CoT, 効率の逆数みたいなもの)を求めるには、Metabolic rate を Speed で割ればよい。この値を縦軸に、Wt(weightだろう)を横軸にとって両対数にすれば figure 1 になる。

気づき

さて、これで色々わかることがある。

  1. コンドルなんていない。Jobs は The condor used the least energy to move a kilometer みたいに言ってるが、Scientific American の記事にも、元論文にも、condor なんて出てきて。たぶんどこか他で聞いた話と脳内で勝手にマージしたんじゃないだろうか。
    • 飛行で一番いい(縦軸の CoT が小さい)のはこの中では pigeon つまりハト。ハトなんてどう考えても効率最高の鳥ではない。もっと翼が細長い鳥のほうがいいのはかなり自明(説明は省略…)。実際、先の bikeboom.info の記事を読みすすめると、the bicycle is nowhere near as efficient as Solar Impulse, the aircraft currently attempting to fly around the world. ってあるんだよね…。これが事実なのか走らないけど、飛行だって相当効率をよくできるのは間違いないだろう(参考:ソーラー・インパルス - Wikipedia)。あともっというと CoT は「どれだけ速いか」は評価項目になってないのでそれを入れると飛行が圧倒的、みたいなのもあるよね。
    • もちろん、「地面が温まった熱で生じた上昇気流(サーマル)を利用してソアリングをして、次のサーマルを目指してまたソアリングをする」という繰り返しで飛んでいる(サーマルソアリング)をたぶんコンドルはよくやっていて、それは羽ばたき続けての飛行に比べてエネルギの消費はとても小さいだろうから、完全に的はずれとは言い切れない。ただ、そもそも具体的な値がわからないのだから自転車とも他のどれとも比較のしようがないし、blew the condor away, completely off the top of the charts とかは完全に言い過ぎでしょ。
  2. Sci Am 記事の plot の縦軸がちょっとおかしい。よく見ると1, 2, 4, 6, 8が2回出てきている。これはひどい typo で、下の方の、原点に近いものたちは 0.1, 0.2, 0.4, 0.6, 0.8 が正しいことが論文を見るとわかる。
  3. 元論文には bicycle のデータはない。Scientific American が足したのかもしれない。先の bikeboom.info の記事によると、この Sci Am 記事を執筆した S. S. Wilson という人が調べたようだ。彼は lecturer in engineering at Oxford University and a fellow of St. Cross College だったらしいが…
  4. ハチドリの値はちょっと怪しい。これだけは前進飛行時ではないようで、Table 1 欄外に "Speed assumed, metabolic rate measured while hovering." というコメントがある。つまり本当のハチドリの前進飛行に比べると、 metabolic rate が大きめで cost of transport (CoT) も大きめ = 効率が悪めに出ている可能性がある。出典の論文 ( https://doi.org/10.1086/physzool.36.2.30155436 ) は有料で読めませんでした…。
  5. 魚というか遊泳が salmon というたったの1サンプルしかない。一般的には遊泳がもっとも CoT 的に有利だったと思うので *1、これだけを元に語ってしまうのはかなりミスリーディングだろう。

もちろんもっと最近の文献を探せば遥かに網羅的で正確な CoT のデータは当然色々とあるだろう。That is, however, beyond the scope of the current entry... ということでおしまい。

おまけ:縦軸 (CoT) の次元・単位について

なお、縦軸について、論文の Figure 1 "Cost of transport, kcal/(kg km)" と書いてある。一方、Sci Am 記事の plot には "COST OF TRANSPORT (CALORIES PER GRAM PER KILOMETER)" とある。Cost of transport は en.wp の記事 ( Cost of transport - Wikipedia ) にあるようにこの次元で問題ない。Sci Am は単に kcal/kg の部分をキロで約分して cal/g にしているだけだろう。つまり縦軸の数字は論文と Sci Am で全く同じになる(実際、typo を考慮すれば同じになっている)。

ところでもうちょっと考えてみると、CoT は無次元数だという。てことはこの kg とか GRAM とか言ってるのは本当は kgf と GRAM FORCE じゃん。ちゃんと区別しろよ。まぁ論文では mass ではなく weight って書いてあるし、当時の時代的に weight で語るのは普通だったのかもしれないが。そんなこといったらそもそも分子が J でなく kcal じゃんって話か…そっすね。

*1:海外に荷物を発送した人は船便が安いことを知っているだろう。